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2017年9月の法話 [月々の法語]

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
The power of the Vow is without limit.
Thus, even our karmic evil, deep and heavy, is not oppressive.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
仏智無辺にましませば 散乱放逸も捨てられず

<ことばの意味>
願力:阿弥陀仏の、衆生を救い摂りたいという願い
無窮:限界が無いこと
罪業深重:凡夫である私たちが非常に罪深い存在であること
仏智:仏さまの智慧
無辺:際限が無いこと
散乱放逸:欲望に常に乱され、ほしいままに振る舞う者

<現代語訳>
阿弥陀仏の本願力は極まりないものであるから、どんなに罪とがが深かろうとも、それを重しとしない。
阿弥陀仏の智慧は際限がないものであるから、我々の心がどんなに乱れ、自分勝手であろうとも、それをお見捨てにならない。

<私のあじわい>
キリスト教と仏教、特に浄土真宗で似ている部分があると言われます。
キリスト教では人間は原罪を背負っていると説き、親鸞聖人は人間を罪悪深重の凡夫であると説きます。

アダムとイブがエデンの園で暮らしていた時、神から食べることを禁じられた知恵の木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまう。神との約束を破ったことが「原罪」とされています。

いっぽう親鸞聖人が説いたのは、お釈迦さまの教えがあろうと道徳があろうと法律があろうと、人間には御しがたい煩悩があり、その煩悩によってどんな行いでもし得る存在だと説かれました。
「罪」が神との関係性の中から生まれているのか、自己省察の中から生まれているのか、根本的に異なっている部分もあります。しかし根本的に罪を背負った存在だというのが共通している部分ですね。

さて、真宗ではその「罪悪深重の凡夫」を救うのが阿弥陀仏だと説きます。罪悪深重を反省したり償ったりした者を救うのではなく、罪深いままの私たちをそのまま救い摂ると誓った仏さまです。
だからこそ和讃に書かれているように、阿弥陀仏の願いの力は「無窮」であり「無辺」だと説かれているのです。

9月2日からNHKで『植木等とのぼせもん』というドラマが始まりました。タイトルどおり、植木等さんを主人公としています。

この植木等さん、実はお坊さんになっていたのかもしれません。しかも浄土真宗。
植木さんは名古屋の生まれで、お父さまは真宗大谷派の僧侶でした。「等」という名前には「阿弥陀如来が一切衆生を平等に救う」という意味が込められているそうです。

植木さん、芸能人としての顔は「無責任男」を代名詞とするような喜劇俳優でしたが、実際には非常に真面目な正確だったようです。その真面目な彼にヒット曲となる「スーダラ節」の話がやってきます。

ちょいと一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒♫
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝 これじゃ身体にいいわきゃないよ♫
分かっちゃいるけどやめられない♫

1番は酒、2番はバクチ、3番は女性で失敗する、情けない男性の姿が描かれています。まさに和讃に書かれる「散乱放逸」の姿です。
植木さんは住職である父に、こんなふざけた歌を歌って良いのだろうかと相談します。
しかし父は、酒にバクチに女、どれも手を出さなければ良いと分かっているのに、どうしてもやめられない。これはまさしく親鸞聖人が説かれた凡夫の歌だ、浄土真宗の歌だ。ぜひ歌え。
そんなことを伝えたようです。

また「スーダラ」という言葉は、お釈迦さまが生まれたインドの身分制度で下層階級とされた「シュードラ」に似ています。泥と埃にまみれて生きるシュードラ。情と欲にまみれて生きる人を歌うスーダラ節。そんな連想もあったかもしれません(実際には「スーダラ」の語源は不明)。

悩み悲しみ苦しみ切なさ。捨てたくても捨て切れない重荷を抱えた私たちを、そのまま救い摂ると誓う仏さまがいる。そう気づいた時、私たちの重荷は重さが変わらぬままに軽くなっていくのではないでしょうか。

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