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2017年10月の法話 [月々の法語]

ねてもさめても へだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし
All should say Namo Amida Butsu constantly, whether they are awake or asleep.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人はみな
寝てもさめても隔てなく 南無阿弥陀仏を称うべし

<ことばの意味>
弥陀:阿弥陀仏
大悲:阿弥陀仏の大いなる慈悲
誓願:阿弥陀仏が一切衆生を救いたいと誓われたこと

<現代語訳>
阿弥陀仏の、一切衆生を救いたいという誓願を深く信じる人は皆、
寝ている時も目覚めている時も、南無阿弥陀仏と称えようではありませんか

<私のあじわい>
親鸞聖人の和讃には「べし」という言葉がよく出てきます。
言葉のイメージとしては「〜〜すべし」などと命令的なイメージがありますが、調べてみると多様な意味があるようです。

進研ゼミのHPでは以下のように書いてありました。
【推量】 [訳し方]~だろう・~ようだ
【意志】 [訳し方]~う・~よう・~つもりだ
【可能】 [訳し方]~できる
【当然・義務】 [訳し方]~はずだ・~なければならない
【命令】 [訳し方]~せよ
【適当・勧誘】 [訳し方]~のがよい・~よう

命令という意味もありますが、「弟子一人も持たず」「御同行、御同朋」と仰った親鸞聖人が、ここで命令口調になるのは考えにくいことです。ですから和讃に頻出する「べし」は、「意志」や「適当・勧誘」の意味が込められていると考えるのが妥当だと思われます。
ですので現代語訳も「南無阿弥陀仏と称えようではありませんか」といたしました。

ではなぜ親鸞聖人は「一緒にお念仏を称えましょう」と仰ったのでしょうか。
それは、人間が生まれてきた以上、必ず直面せざるを得ない生死の問題があるからです。浄土真宗ではこれを「後生の一大事」と言います。
なにも浄土真宗だけで問題としているわけではなく、洋の東西・宗教を問わず生死は大きな問題なのです。

ラテン語の「メメント・モリ(死を思え)」という言葉はあまりに有名ですし、日蓮聖人は「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」と仰り、またドイツのハイデッガーは「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」と言っています。

思えばお釈迦さまも、裕福な王子の立場を捨てて出家修行に進んだ最初の動機は「病み、老い、死ぬのは嫌だ(四門出遊)」という思いでした。
つまり「死」とは、時代を超え究極の問題として私たちに突きつけられてくるものなのです。
そして法然上人、親鸞聖人は「必ず救うと誓った阿弥陀仏に全てを委ねる」という解決方法を見出し、それを人々に勧めていったのです。

今年の8月、エンディング産業展というイベントがありました。葬儀社や墓石業などの会社、お寺や葬儀に関するサービスを提供する会社が出展したのですが、ひときわ注目を集めメディアでも放映されたのが、ロボットのpepperがお坊さんになった姿でした。

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木魚を叩き、お経を上げ、法話もするというのです。賛否両論……とは言っても否定的な意見が多く、賛成意見も「まあ、お経は間違えないよね」といった程度のものでした。ただAIが進歩していけば、人間の僧侶を脅かす存在になるのではないか、という意見もありました。

しかし私としては、宗教の出発点のひとつが生死の問題である以上、死ぬことがないロボットは、宗教者として決定的に欠けているものがあると思います。

もちろんプログラムで「死に恐怖している様子」を振る舞うことは出来るかもしれません。同じように、完璧なお経や素晴らしい法話も可能でしょう。

つまり僧侶が法要儀式の場での読経マシーンであるならば、ロボットが代行することは可能だと思います。しかし、共に苦しみ、迷い、涙する存在であるからこそ、人間が宗教者をする意味があるのだと思います。

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