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2017年11月の法語 [月々の法語]

信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ
It is by entering the wisdom of the entrusting heart that we become person who respond in gratitude to the Buddha’s benevolence.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。

また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

釋迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心は得しめたる
信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

<ことばの意味>
釋迦弥陀:お釈迦さまと阿弥陀さま
願作仏心:仏に成ろうと願う心 菩提心

<現代語訳>
お釈迦さまと阿弥陀さまの大慈悲によって、私たちは大菩提心を頂くことができた。
これは阿弥陀さまより賜った信心の智慧であって、この信心の智慧を得れば仏恩を感じ、これに報いようとする身になるのである。

<私のあじわい>
親鸞聖人はとても言葉を厳格に、また大切に扱う方だったようで、ご自身で書かれた文に「左訓」と呼ばれる註釈を丁寧にお書きになりました。
この和讃にも左訓が書かれていますが、特に3行目「信心の智慧にいりてこそ」の左訓が興味深いものになっています。
「弥陀の誓いは智慧にてまします故に、信ずる心の出で来るは智慧の起こると知るべし」と書かれていて、3行目本文よりもずっと長くなっています。

信心というと、「鰯の頭も信心から」や「盲信」という言葉もあるとおり、何かよく分からないけれど、とにかく拝んでおこうというような、知的な行為でないように捉えられることがあります。しかし親鸞聖人にとって信心とはそのような曖昧模糊としたものではなく、はっきりと眼が開き、迷いが晴れたような状態と受け止めていらしたのでしょう。
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万行寺の本多靜芳師は「信心の語源はサンスクリット語の『チッタ・プラサーダ』で、三昧や禅定という意味がある。言い換えると、心を静める、浄化するという意味で、いわゆる『信じる』という意味はない」と仰っていました。
ここからも信心とは、「何やらよく分からないものを拝む」という姿勢ではなく、本来は非常に知的な行為なのだということが分かりますし、親鸞聖人はやはり言葉の意味を正確に捉えていたことが伺い知れます。

ではその智慧というのはどういうことなのでしょうか。
私は宗派を問わず、仏教で説いている根本は「縁起・智慧・慈悲」だと思っています。
もう少し丁寧にお話ししますと、「この世の全ては互いに繋がり合っているという『縁起』の道理があり、それを『智慧』の眼で見据え、関係する全ての対象に『慈悲』が湧き起こるもの」と捉えています。

以前に「それを現代的に伝えるとどういう言葉になりますかね?」と問われてスッと頭に思い浮かんだのが「相関・俯瞰・共感ですかね」という言葉でした。言った後に気づいたのですが、「〜〜カン」と韻を踏んでいて、知人からも覚えやすくて分かりやすい、と褒めて頂きました。

縁起も智慧も慈悲も日本人には耳慣れた言葉ですので、はっきりと意味は分からなくても何となく有り難そうな言葉だと頷いてしまいがちだと思います。
けれど僧侶は、仏教用語の持っている雰囲気に依存するのではなく、しっかりと意味が伝わるように説明する必要があるのだと思います。そうしてこそ「鰯の頭も信心から」ではなく「信心=チッタ・プラサーダ」を共に味わえるのではないでしょうか。

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2017年10月の法話 [月々の法語]

ねてもさめても へだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし
All should say Namo Amida Butsu constantly, whether they are awake or asleep.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人はみな
寝てもさめても隔てなく 南無阿弥陀仏を称うべし

<ことばの意味>
弥陀:阿弥陀仏
大悲:阿弥陀仏の大いなる慈悲
誓願:阿弥陀仏が一切衆生を救いたいと誓われたこと

<現代語訳>
阿弥陀仏の、一切衆生を救いたいという誓願を深く信じる人は皆、
寝ている時も目覚めている時も、南無阿弥陀仏と称えようではありませんか

<私のあじわい>
親鸞聖人の和讃には「べし」という言葉がよく出てきます。
言葉のイメージとしては「〜〜すべし」などと命令的なイメージがありますが、調べてみると多様な意味があるようです。

進研ゼミのHPでは以下のように書いてありました。
【推量】 [訳し方]~だろう・~ようだ
【意志】 [訳し方]~う・~よう・~つもりだ
【可能】 [訳し方]~できる
【当然・義務】 [訳し方]~はずだ・~なければならない
【命令】 [訳し方]~せよ
【適当・勧誘】 [訳し方]~のがよい・~よう

命令という意味もありますが、「弟子一人も持たず」「御同行、御同朋」と仰った親鸞聖人が、ここで命令口調になるのは考えにくいことです。ですから和讃に頻出する「べし」は、「意志」や「適当・勧誘」の意味が込められていると考えるのが妥当だと思われます。
ですので現代語訳も「南無阿弥陀仏と称えようではありませんか」といたしました。

ではなぜ親鸞聖人は「一緒にお念仏を称えましょう」と仰ったのでしょうか。
それは、人間が生まれてきた以上、必ず直面せざるを得ない生死の問題があるからです。浄土真宗ではこれを「後生の一大事」と言います。
なにも浄土真宗だけで問題としているわけではなく、洋の東西・宗教を問わず生死は大きな問題なのです。

ラテン語の「メメント・モリ(死を思え)」という言葉はあまりに有名ですし、日蓮聖人は「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」と仰り、またドイツのハイデッガーは「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」と言っています。

思えばお釈迦さまも、裕福な王子の立場を捨てて出家修行に進んだ最初の動機は「病み、老い、死ぬのは嫌だ(四門出遊)」という思いでした。
つまり「死」とは、時代を超え究極の問題として私たちに突きつけられてくるものなのです。
そして法然上人、親鸞聖人は「必ず救うと誓った阿弥陀仏に全てを委ねる」という解決方法を見出し、それを人々に勧めていったのです。

今年の8月、エンディング産業展というイベントがありました。葬儀社や墓石業などの会社、お寺や葬儀に関するサービスを提供する会社が出展したのですが、ひときわ注目を集めメディアでも放映されたのが、ロボットのpepperがお坊さんになった姿でした。

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木魚を叩き、お経を上げ、法話もするというのです。賛否両論……とは言っても否定的な意見が多く、賛成意見も「まあ、お経は間違えないよね」といった程度のものでした。ただAIが進歩していけば、人間の僧侶を脅かす存在になるのではないか、という意見もありました。

しかし私としては、宗教の出発点のひとつが生死の問題である以上、死ぬことがないロボットは、宗教者として決定的に欠けているものがあると思います。

もちろんプログラムで「死に恐怖している様子」を振る舞うことは出来るかもしれません。同じように、完璧なお経や素晴らしい法話も可能でしょう。

つまり僧侶が法要儀式の場での読経マシーンであるならば、ロボットが代行することは可能だと思います。しかし、共に苦しみ、迷い、涙する存在であるからこそ、人間が宗教者をする意味があるのだと思います。

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2017年9月の法話 [月々の法語]

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
The power of the Vow is without limit.
Thus, even our karmic evil, deep and heavy, is not oppressive.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
仏智無辺にましませば 散乱放逸も捨てられず

<ことばの意味>
願力:阿弥陀仏の、衆生を救い摂りたいという願い
無窮:限界が無いこと
罪業深重:凡夫である私たちが非常に罪深い存在であること
仏智:仏さまの智慧
無辺:際限が無いこと
散乱放逸:欲望に常に乱され、ほしいままに振る舞う者

<現代語訳>
阿弥陀仏の本願力は極まりないものであるから、どんなに罪とがが深かろうとも、それを重しとしない。
阿弥陀仏の智慧は際限がないものであるから、我々の心がどんなに乱れ、自分勝手であろうとも、それをお見捨てにならない。

<私のあじわい>
キリスト教と仏教、特に浄土真宗で似ている部分があると言われます。
キリスト教では人間は原罪を背負っていると説き、親鸞聖人は人間を罪悪深重の凡夫であると説きます。

アダムとイブがエデンの園で暮らしていた時、神から食べることを禁じられた知恵の木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまう。神との約束を破ったことが「原罪」とされています。

いっぽう親鸞聖人が説いたのは、お釈迦さまの教えがあろうと道徳があろうと法律があろうと、人間には御しがたい煩悩があり、その煩悩によってどんな行いでもし得る存在だと説かれました。
「罪」が神との関係性の中から生まれているのか、自己省察の中から生まれているのか、根本的に異なっている部分もあります。しかし根本的に罪を背負った存在だというのが共通している部分ですね。

さて、真宗ではその「罪悪深重の凡夫」を救うのが阿弥陀仏だと説きます。罪悪深重を反省したり償ったりした者を救うのではなく、罪深いままの私たちをそのまま救い摂ると誓った仏さまです。
だからこそ和讃に書かれているように、阿弥陀仏の願いの力は「無窮」であり「無辺」だと説かれているのです。

9月2日からNHKで『植木等とのぼせもん』というドラマが始まりました。タイトルどおり、植木等さんを主人公としています。

この植木等さん、実はお坊さんになっていたのかもしれません。しかも浄土真宗。
植木さんは名古屋の生まれで、お父さまは真宗大谷派の僧侶でした。「等」という名前には「阿弥陀如来が一切衆生を平等に救う」という意味が込められているそうです。

植木さん、芸能人としての顔は「無責任男」を代名詞とするような喜劇俳優でしたが、実際には非常に真面目な正確だったようです。その真面目な彼にヒット曲となる「スーダラ節」の話がやってきます。

ちょいと一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒♫
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝 これじゃ身体にいいわきゃないよ♫
分かっちゃいるけどやめられない♫

1番は酒、2番はバクチ、3番は女性で失敗する、情けない男性の姿が描かれています。まさに和讃に書かれる「散乱放逸」の姿です。
植木さんは住職である父に、こんなふざけた歌を歌って良いのだろうかと相談します。
しかし父は、酒にバクチに女、どれも手を出さなければ良いと分かっているのに、どうしてもやめられない。これはまさしく親鸞聖人が説かれた凡夫の歌だ、浄土真宗の歌だ。ぜひ歌え。
そんなことを伝えたようです。

また「スーダラ」という言葉は、お釈迦さまが生まれたインドの身分制度で下層階級とされた「シュードラ」に似ています。泥と埃にまみれて生きるシュードラ。情と欲にまみれて生きる人を歌うスーダラ節。そんな連想もあったかもしれません(実際には「スーダラ」の語源は不明)。

悩み悲しみ苦しみ切なさ。捨てたくても捨て切れない重荷を抱えた私たちを、そのまま救い摂ると誓う仏さまがいる。そう気づいた時、私たちの重荷は重さが変わらぬままに軽くなっていくのではないでしょうか。

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2017年6月の法語 [月々の法語]

弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり
Amida has fulfilled the directing of virtue, which has two aspects: that for our going forth and that for our return.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ 心行ともに得しむなれ

<ことばの意味>
弥陀:阿弥陀仏のこと
回向:阿弥陀仏から私たちに向けられる働き
往相:私たち凡夫が、浄土に往き仏として生まれること
還相:仏として生まれた私たちが、この世に戻り人々を救い導くこと
心行:信心と念仏

<現代語訳>
阿弥陀仏が私どもに恵まれる働きはすっかり完成していて、浄土に向かわしめる働きと、再びこの世へ帰らしめる働きと、二つである。
これらの本願のお恵みによってこそ、信心も念仏も得させて下さるのである。

<私のあじわい>
突然ですが、亡くなった方はどこにいらっしゃると思いますか?
死んだら無になる、という人もいらっしゃるでしょう。
すぐそばで見守ってくれているという方もいます。 
お星さまになったという方もいます。
天国に行かれたという方もいます。
私の心の中にという方もいます。
空の彼方という方もいます。
草葉の陰という方もいます。
亡き方を思ってお墓で手を合わせる方もいます。
亡き方を思ってお仏壇で手を合わせる方もいます。
遠くにいるような、でも近くにいるような…
果たしてどこにいるのか、誰もハッキリとは分かりません。
誰も確かめることが出来ない以上、人によって曖昧になってしまいます。
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では仏教では、浄土真宗ではどう説いているのでしょうか。
それは遥か西の彼方、十万億の国を越えた西方極楽浄土で、憂い苦しみの無い仏さまとしておわします、と説いています。これが「往相回向」という言葉で表されています。

しかし、遥か西の世界にいらっしゃると同時に、私たちの元に帰り来て、様々な手だてを講じて救い、導いて下さっているとも説いています。これは「還相回向」という言葉で表されています。

亡き方を思い出し、いのちの不思議に感謝する時、様々なご恩に気づく時、「見守っていてね」と勇気を奮い起こす時、いつかきっと会えるねと懐かしむ時、それは自分自身の頭の中だけの出来事ではなく、仏となった亡き方があなたに働きかけているのですよと説くのです。

最近、あちこちで「死生観」や「死生学」という言葉を耳にするようになりました。終活が流行り、私が開催する「死の体験旅行」に多くの人が集まりますが、元気なうちに「死」について考えるのは、健全なことだと私は思っています。

しかし、もう一歩進んで「死後観」も大切ではないかと私は思っています。死生観は様々な分野の方が口にしていますが、死後観は宗教者しか語ることが出来ません。

この世の〝いのち〟を終えた後の世界をどう捉えるのか、どう語るのか。曖昧なイメージを漠然と抱くのではなく、綿々と受け継がれてきた重厚な世界観を持つことが、どれだけ人を勇気づけてくれるだろうかと思います。

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2017年5月の法語 [月々の法語]

大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり
The great entrusting heart is itself Buddha-nature.
Buddha-nature is none other than Tathagata.


今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。


信心よろこぶその人を 如来と等しと説きたまふ
大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり


<ことばの意味>
信心:阿弥陀仏より回向されたもの
如来:ほとけ、悟りをひらいた存在
等し:親鸞聖人は「(如来と)等し」と
   「(弥勒に)同じ」という使い分けをされる
仏性:仏のさとりそのものの性質

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<現代語訳>
信心をよろこぶ人を、如来と等しい人であると説く。
大信心は仏になる因子に他ならず、この因子そのものが如来なのである。


<私のあじわい>
先日、横浜市中区の三溪園に初めて行ってきました。存在は知っていたものの、近いせいかなかなか足が向かなかったのですが、何人かの方から「良いところよ」とお聞きし、重い腰を上げました。
http://www.sankeien.or.jp


三溪園は明治元年(慶應4年)生まれの実業家、原三溪によって造られた庭園ですが、まるで自然豊かな地方に旅行に行ったような気分を味わえ、「横浜市内にこんな場所があったのか!」と驚いてしまいました。


庭園も見事なのですが、原三溪が全国各地から移築した歴史的建造物も素晴らしく、国や市の文化財として指定されているものも多くあります。
紀州徳川藩の別邸であった建物や、織田信長の弟 有楽斎が建てた茶室や、白川郷の合掌造りの家など、国の重要文化財に指定されているものが多くあります。


その中に、大きくはありませんが、見事な彫刻が施された建物がありました。ボランティアのガイドさんに案内して頂いたのですが、その方がお堂の扉に彫られた彫刻を指して「何に見えますか?」とクイズを出してきました。


一般の方は「天女?」と答えるのでしょうが、私もそこはお坊さんの端くれ、「迦陵頻伽ですね」と答えたらガイドさんはビックリ! 種明かしに自己紹介をすると、納得をされていました。


さて、この建物、元々は京都の天瑞寺にあったもので、豊臣秀吉が病を患った母親のために建てた寿塔の覆堂です。寿塔とは生前に建てられた個人のお墓で、覆堂はそのお墓をカバーするお堂です。この覆堂が移築されたので、現在はお墓は剥き出しになっています。


なぜこの建物に注目したかというと、この覆堂が天下人であった豊臣秀吉が、母の病気平癒を願い、またおそらく死後も安泰であって欲しいと願って建てたものだという点です。ちなみに秀吉は、母の三回忌には京都の東寺の大塔と、大阪の四天王寺を再建していますが、これも死後の世界での安泰を願ってのものでしょう。


今も昔も、健康で長生きして欲しいという思いは当然あります。そして、死後の問題も決して見過ごすことはできません。仏教の言葉だと「後生の一大事」と言いますし、看取りの医師や看護師が、最期を迎える多くの方が、没後の不安(スピリチュアル・ペイン)に苦しめられると仰っています。


母親のためにこれだけのことをして、秀吉は安心していたのでしょうか。それとも一抹の不安を抱え続けていたのでしょうか。その真意は分かりませんが、これだけのことをできない一般の人々にとって、「後生の一大事」は大きな不安に支配されていたと思います。


しかし親鸞聖人は、阿弥陀如来から信心を賜った者は、次に仏さまになる弥勒菩薩と同じ位にあるのだ、だから仏さまと等しい存在なんだ、と和讃で説かれます。この言葉で大きな安心を得て、多くの方が「後生の一大事」から解放されていったのだと思います。

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2017年4月の法語 [月々の法語]

仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり
Those who hear the Buddha’s Name attain forever the stage of nonretrogression.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

たとひ大千世界に みてらむ火おも過ぎ行きて
仏の御名をきくひとは ながく不退にかなうなり

<ことばの意味>
大千世界:仏教の世界観で、この世界全体を指す「三千大千世界」の略。
みてらむ火:「満ちる火」の意。
不退:仏教語で、正定聚(信心が定まり、仏に成ることが定まった位)から退かないこと。
かなう:「適合する」、「あてはまる」の意。

<現代語訳>
たとえこの宇宙を猛火が包もうとも、その満ち満ちている火の中をも突き進んで、阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を聞き求める人は、永遠に正定聚の位を退かない地位を約束されるのだ。


<私のあじわい>
今でこそロケットで宇宙から地球を見ることができるようになり、私たちが住んでいる世界はどのような形なのか分かっていますが、昔は世界のあちこちで想像力にあふれた世界観がありました。

古代インド人の世界観は壮大です。まず虚空に3枚重なった円盤状のものが浮かび、周囲に月や太陽が浮かんでいます。円盤は下から風輪、水輪、金輪と言い、「金輪際」という言葉はここから来ています。

金輪はお盆のようになっていて、内側に水が満ちていて、これが海になります。海には中央に大きな島がひとつと、東西南北にもそれぞれ島があり、南に浮かぶ島が自分たち(古代インド人)が住んでいる場所とされていました。

中央の島には天までとどく須弥山がそびえ立っています。おそらく北方にそびえるヒマラヤ山脈がイメージされているのでしょう。ちなみにお寺の本堂で、ご本尊が安置されている壇は、この須弥山になぞらえて須弥壇と呼ばれています。
また、須弥山の上空にも世界があり、最も上を有頂天と呼びます。金輪際といい有頂天といい、私たちが使う言葉には多くの仏教語が含まれています。

さて、これが1世界です。これが1000集まると小千世界。小千世界が1000集まると中千世界、中千世界が1000集まると大千世界で、呼び方としては三千大千世界となります。つまり10億の世界が集まって三千大千世界となるという、途方もない世界観です。

あまりにも想像力たくましい話ですが、以前国立天文台の所長を務めた観山正見さん(浄土真宗寺院のお生まれです)は、偶然ではあろうが、実際の宇宙の構造に似ている、と仰います。

太陽や月を含む1つの世界が、私たちの住む太陽系。その太陽系のような星系が数多く集まって1つの銀河系(小千世界)が形作られます。さらに銀河系が多数集まり銀河団(中千世界)となり、銀河団が多数集まって宇宙全体(三千大千世界)、となるのでしょうか…。果てしなさ過ぎて、頭がクラクラしてきます。

さて、ようやく話が和讃に戻りますが、その宇宙全体とも言える三千大千世界がたとえ火に覆い尽くされたとしても、その炎に屈せず阿弥陀仏の名を聞き求める人は、仏さまに成ることが間違いない位(正定聚)に至る、と説かれています。

「炎に屈せず」とは、かなり勇ましい内容の和讃ですが、それでも私たちに必要なことは阿弥陀仏の名を称え聞くことです。なによりお念仏を大事にして欲しいという親鸞聖人のお気持ちが伝わってくるような気がします。

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2017年3月の法語 [月々の法語]

一念慶喜するひとは 往生かならず さだまりぬ
People who attain the one thought-moment of joy, their birth becomes completely settled.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

若不生者の誓いゆえ 信楽まことに時至り
一念慶喜するひとは 往生かならず さだまりぬ

<ことばの意味>
「若不生者の誓い」とは阿弥陀如来の四十八願 第十八願にある「若不生者 不取正覚(もし浄土に生まれることを望んで、それが果たされない者がいれば、私は悟りに至ることはない)」という部分を指します。
「信楽」は、その阿弥陀仏の誓いを深く信じて疑わないこと。
「一念慶喜」は、阿弥陀仏を信じる心が起こり、喜びが湧き上がることです。
「往生」は浄土に往って、仏として生まれることです。

<現代語訳>
迷える人を救い得なければ、我も仏にならないとの阿弥陀仏の誓願の故に、ようやく信心の開ける時がめぐり来て、信じ得た喜びにひたる人は、浄土への往生が誤りなく決定している。


今月の法話会は、東日本大震災の七回忌法要を合わせてお勤めすることになりました。言うまでもなく多くの犠牲者が出て、いまだに2500人以上の方が行方不明という大災害でした。
非業の死を遂げたり、遺体すら見つからない場合、関係者や遺族は「亡き人は苦しんでいるのではないか、さ迷っているのではないか、成仏できないのではないか」という思いを抱く場合があると思います。東北の大学の学生が書いた「被災地の幽霊」という論文も注目を集めましたが、仏教ではどう説いているのでしょうか。


阿弥陀如来の誓いのうち、最も大切な第十八願には「私(法蔵菩薩=阿弥陀仏の前身)が仏になる条件が整った時、人々が私の国(極楽浄土)に生まれたいと願って私の名を呼び、もしそれが果たされないならば、私は仏に成ることはない」と書かれています。

「名を呼び」というのは「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えるという行為を指します。つまり、難しい修行などが出来なくても、お念仏を称えた者を必ず救うと阿弥陀仏が誓われているのです。

となると、「亡くなった方は仏教徒というわけではなく、念仏を称えたこともないだろうから、成仏できていないのだろうか」と疑問に思うかもしれません。
しかし私はそうは思いません。「全ての生けとし生ける者を救いたい」と願った阿弥陀仏が、永遠にも近い時をかけて熟慮し修行なさった成果が、お念仏の有無で左右されるでしょうか。私はお念仏は絶対的に必要な条件という訳ではないと思っています。生命を全うし、安らかな世界に旅立ちたいという根源的な思いを、阿弥陀さまは汲み取って下さるのではないでしょうか。

であれば、仏教やお念仏にご縁が無いまま亡くなった方々も、苦しんだりさ迷ったりしているのではなく、ちゃんと成仏なさっていると私は受け止めています。

仏教では「逮夜(たいや)」という考え方があります。ご命日の前夜を意味する言葉ですが、命日と同等以上に重んじられ、逮夜に法要をする場合も多かったようです。今日の法話会は、東日本大震災の逮夜、3月10日にあたります。多くの犠牲者を偲びつつ過ごす一日にしたいと思います。

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2017年2月の法語 [月々の法語]

如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
Tathagata is none other than nirvana, and nirvana is called Buddha-nature.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず 安養にいたりて証すべし

<ことばの意味>
如来とは悟りを開いた者や悟りそのものを指し、涅槃は悟りと同義で、仏性は悟りの因を指します。凡地は凡夫地の略で、この娑婆世界のことを指します。

<現代語訳>
如来は涅槃に等しく、涅槃は仏性と名付けられている。
私たち凡夫の世界では悟りを得ることはできず、安養浄土に往生して証を得るものである。


如来は悟りを開いた方、あるいは悟りの本質そのものを指し、涅槃は煩悩の火が吹き消された状態=悟りを指します。また仏性は、悟りを開く因となるものを指します。

前半では「悟り」がメインテーマになっていますが、後半では私たちの世界(娑婆)で悟りを得ることが出来ない、と書かれています。
平安時代や鎌倉時代は、仏教的時代観では「末法」という世代に入ったとされ、正しい修行や悟りの無い時代と考えられていました。それが反映されて「凡地にしてはさとられず」と書かれています。

ではその時代に生きる人々は悟れないのか、救われないのか、ということが問題になった時に現れたのが「浄土の教え」で、後半に説かれている内容です。つまり、この世界を離れて悟りを得やすい世界(浄土)に往き、そこで悟りを開くという考え方です。「安養」は浄土の別名のひとつです。

浄土教が花開いた鎌倉時代は、それだけ人々が苦しんだ時代だということです。天災や戦乱に苦しめられ、老病死に恐れおののくこの世を離れ、安らかな浄土に往きたいと願ったのです。

いえ、それは鎌倉時代だけの話ではなく、現代も根本は変わっていません。現代科学技術も天災の前には力を無くし、戦争やテロの恐怖はじわじわと世界を覆っています。

ここ数十年で寿命は飛躍的に伸びましたが、それがかえって老いる苦しみを増しています。
医学も発達し続けていますが、病気は無くなることはなく、検査技術の発達でかえって病気と診断されることが増えています。
そして「死」はいつの時代も解決できない問題として、私たちの前にそびえ立っています。

科学や医学の発展は、とても有り難いものです。
しかし、人間が抱く根源的な問題は、どうしてもそれでは解決されません。鎌倉時代よりもかえって現代の方が、私たちは宗教や仏教を必要としているのかもしれません。

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2017年1月の法語 [月々の法語]

無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり
The light dispels the darkness of ignorance.
Thus, Amida is called “Buddha of the Light of Wisdom.”

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した今様と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

無明の闇を破するゆえ 智慧光仏となづけたり
一切諸仏三乗衆 ともに嘆誉したまへり

「一切諸仏」は文字通り、一切の仏さまという意味ですが、続く「三乗衆」が見慣れない言葉です。「三乗」とは、仏道を歩むものが声聞・縁覚・菩薩の三種あり、それを指す言葉です。「衆」が付きますので、「仏道を歩む諸々の人々」という意味になります。

また「嘆誉」という言葉があり、親鸞聖人はここに「ほめ・ほむ」という左訓を付けています。「嘆」は「なげく」と読みますが「感嘆」という言葉もあり、感心するという意味もあります。

以上を踏まえて、現代語訳は以下の通りです。
迷いの闇を照らし破るので、(阿弥陀仏は)智慧の光の仏と名付けられる。
一切の仏さまや仏道を歩む者が、共にその光をほめたたえる。


さて、阿弥陀仏を誉めたたえると言っても、「ハンサムですね」「超やさしいですね」「耳たぶ大きいですね」などという言葉をかけるということではなく、やはりお念仏がそれにあたります。2014年9月の法語カレンダーは「お念仏は讃嘆であり、懺悔である」という金子大榮さんの言葉でしたが、お念仏には阿弥陀さまを讃える意味も含まれています(それだけではありませんが)。
ですので私は葬儀や法事などの時、参列の方になるべくお念仏を口に出して頂こうと、あの手この手を駆使するようにしています。

先日、ある女性の葬儀がありました。その方はコーラスをしており、通夜葬儀にはその友人たちが大勢いらして、別れを悲しんでいました。

出棺の時にはその方々が、『今日の日はさようなら』を歌うことになっていました。この歌は森山良子さんの1966年の曲で、若者の友情を育む歌として作られました。でも友情は、若者だけの特権ではありません。「今日の日はさようなら♪」「また会う日まで♪」という歌詞は、葬儀の場にもふさわしいものだと思います。
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浄土真宗でお勤めする『仏説阿弥陀経』には「倶会一処」という言葉がありますが、これは「一つの場所(お浄土)で必ず再会しましょうね」という意味の言葉です。ですのでこの歌は、仏教的な意味も含むものだと感じました。

そういったご法話をさせて頂いたのが通じたのでしょうか。
「それでは皆さん、ご一緒にお念仏を…」と呼びかけたところ、参列の方々がしっかりとお念仏を称えて下さいました。

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2016年11月の法語 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
12月は報恩講法要になり、通常の法話会はお休みです。
ですので最終回となる11月は、以下の12行をお話させて頂きました。

本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 真宗教証興片州 選択本願弘悪世
還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入
弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪 道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

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さて、正信偈の最終回は、浄土七高僧の第七祖、源空上人(法然上人)です。
法然上人は、浄土真宗の宗祖、親鸞聖人の直接のお師匠さまであり、生涯敬愛し続けた方でもあります。

幼名は勢至丸、現在の岡山県に生を受けました。
父親は押領使(おうりょうし)の漆間時国。「おうりょう」なんて言うと会社のお金を使い込む人かと思ってしまいますが、それは「横領」。押領使は、現在で言う地方警察署の署長さんのような立場。いわゆる武人でした。

勢至丸が9歳の時、漆間時国は対立関係にあった明石貞明に夜討ちをかけられ、重傷を負い、やがて死に至ります。今際の際、時国は息子を呼び寄せこう言います。
時国「お前も武家の子、きっと私の仇を討つのだぞ…」

……ではありません。
実際には「お前が仇を討てば、やがて相手の子どもがお前の命を狙うだろう。仇討ちは仇討ちを生み、怨みは怨みを生む。お前は仇討ちなど忘れ、仏門に入って私の菩提を弔ってほしい…」という内容を息子に告げました。

お釈迦さまの言葉に「怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みの止むことがない。怨みを捨ててこそ止む」という言葉があります。時国は息子を、血で血を洗う修羅道から救ったのです。


さて、やがて仏門に入った勢至丸は、あまりの天才ぶりに比叡山で学ぶこととなります。そしてそこでも異才を放ち、「智慧第一の法然房」と呼ばれる当代随一の学僧として尊敬を集めます。

しかし自分では己のことを「愚痴の法然」と呼び、そんな自分が救われる道は果たしてあるのだろうかと求道し続けます。そこには仏道に入って功徳を積むことなく、戦で命を落とした父親が救われる道を探したいという思い。ひいては全ての人々が平等に救われていく道がないのだろうかと探し求めていたのではないでしょうか。

そして法然上人は中国の善導大師が記した「順彼仏願故(彼の仏の願に順ずるが故に)」という言葉に出逢います。「念仏を称えることは、仏の願いに適ったことなのだ」と感動し、その教えは浄土宗・浄土真宗となって今に受け継がれています。

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