So-net無料ブログ作成
月々の法語 ブログトップ
前の10件 | -

2018年6月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-06-05 06-05 13.50.23.png
順番からいくと第5条なのですが、ちょっと都合があって第6条についてお話しをさせて頂きました。
第6条は「師弟関係」について親鸞聖人が説かれています。

晩年京都にいらっしゃった親鸞聖人に、関東の弟子たちから質問が届いたのでしょう。
関東での布教時代、親鸞聖人の元には多くの弟子が集いました。師が近くにいる間は疑問があれば色々と直接お聞きすればよいかったのですが、遠く京都に行かれてしまうと、なかなかそうもいきません。

さまざまな疑問や異説がはびこっていったようで、念仏の道場を開く弟子たちの間に、自分の弟子、他人の弟子、というような勢力争いも始まってきたようです。

そんな窮状を訴える弟子に向かって親鸞聖人は、「私には1人の弟子もいないよ」と言い放ったのです。
お弟子さんたち、さぞ驚いたでしょう。
きっと目が点になったに違いありません (。・・。) 

親鸞聖人は言葉を続けます。
私が自分でお念仏をこしらえて皆さんに渡したのであれば、皆さんを私の弟子と言うことができるでしょう。けれどお念仏は阿弥陀さまが永い時をかけて考えこしらえたものです。私はそれを皆さんにお伝えしただけですから、私たちは師や弟子という関係ではないのですよ。

浄土真宗が「絶対他力」と言われる所以です。
阿弥陀仏の救い、お念仏の教えに、一切自分の力を挟む余地が無い、という清々しいまでの親鸞聖人の姿勢です。
さらに「自分の弟子、他人の弟子」という争論に対して親鸞聖人は「もってのほかの子細なり」「荒涼のことなり」「不可説なり」と嫌悪感すら伝わるほどの厳しい言葉をもって叱責しています。

そして親鸞聖人は、世間的にみれば師弟関係にある方々を「御同行(おんどうぎょう)・御同朋(おんどうぼう)」と呼ばれました。上も下も無い、みな仲間なのだと説いたのです。

nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:blog

2018年5月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-05-14 05-14 16.17.18.png
歎異抄の第4条は「慈悲に、聖道門と浄土門(浄土教から見た仏教の分類)で相違点がある」というテーマになっています。

一般にイメージされるような、傷ついたり困っている相手に救いの手を差し伸べるのが「聖道門の慈悲」と書かれていますが、すべての者を救い尽くすことは出来ない、とも書かれています。
それに対して浄土門の慈悲は、まず自分がお念仏をして仏さまになり、そして思う存分に衆生を救うとされています。実際に行動するのではなく、お念仏をせよ、と書かれているのです。

今の感覚では、とても消極的なように感じられるかもしれません。
しかし時は平安・鎌倉時代です。ごく一部の特権階級を除けば、多くの人が今日明日をどうやって生きるかという生活をしていました。

しかも親鸞聖人の長い生涯には4度の大飢饉がありました。
親鸞聖人が9歳の時、洛中に屍累々としていた様子は鴨長明の『方丈記』にも描かれていますし、親鸞聖人の晩年のお手紙にも「こぞことし(去年今年)、老少男女おおくの人々の死にあいて候らんことこそ、あわれに候へ」と記されています。

そんな社会状況の中、目の前で苦しんでいる人を救う手だても無く、ただただお念仏をするしかないということもあったのではないかと思います。


また、自らの修行によって悟りを求める宗派であれば、自らを犠牲にすることも厭わない、いわゆる菩薩行として人助けをすることもあり得ます。
しかし親鸞聖人は、自力の修行を否定し、阿弥陀仏の絶対他力を説かれました。そのお考えもあったからこそのお言葉ではないかと思います。


ただ、決して慈悲の実践、今風に言えばボランティア活動を否定していたのかと言うと、そうではないと私は捉えています。
浄土真宗の僧侶や信仰を持つ方の中には、この歎異抄 第4条を引き合いに出して「ボランティアなどするべきではない、してはならない」と仰る方もいます。
しかし私は、「せずにおれない」「見て見ぬふりはできない」という思いからであれば、手を差し伸べることがあっても良いと思っています。

私は、菩薩行ではなく煩悩の発露としてボランティア活動をしています。私が行っている少しばかりの活動は、例えば「もっと美味しいものが食べたい」「もっとお金が欲しい」という欲望と変わるところはないと自覚しています。

nice!(3)  コメント(2) 
共通テーマ:blog

2018年4月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-04-15 04-15 9.45.49.png
親鸞聖人、法然上人がいらっしゃった鎌倉時代から、お念仏の教えは誤解を招くことが多く、一時は『歎異抄』も「門外不出の書」として扱われていた時代もありました。

その中でも今回の第三条は「悪人正因」「悪人正機」と呼ばれ、もっとも誤解を招きやすい部分について書かれています。
なにしろ書き出しの一文が「善人でさえ浄土に往生することができるのだから、ましてや悪人は言うまでもない」となっているからです。

初めてこの文を目にした方はだいたい「えっ、逆でしょ? 誤植かな?」と思われるようですが、これで間違っていないのです。
「そんなバカな」と思われるかもしれませんが、親鸞聖人が仰る「善人・悪人」の意味が、私たちが一般的に使うそれと全く意味が異なっているのです。

一般的な「善人」
 社会のルールを守り、ボランティアなどの善い行いをする人
歎異抄での「善人」
 自分の力で悟りを開けると思い込み、阿弥陀仏に頼り切れない人

一般的な「悪人」
 法律や道徳を無視するような人
歎異抄での「悪人」
 自分の力の限界を悟り、仏さまに素直に委ねられる人

阿弥陀如来の救いの対象は、全ての生きとし生けるものです。
ですので、一般的な善人悪人も、親鸞聖人が仰る善人悪人も、全てが救いの対象です。
しかし歎異抄での善人は「自分でなんとかするから阿弥陀さんには頼らないよ!」と、仏さまに背を向けて逃げているような状態です。

反対に歎異抄での悪人は「自分ではもうどうしようもない、阿弥陀さん、よろしくお願いします」と仏さまに歩み寄っていくような状態です。

こう考えると冒頭の一文「善人でさえ浄土に往生することができるのだから、ましてや悪人は言うまでもない」は、
「逃げていく『善人』でさえ救われるのだから、仏さまに歩み寄る『悪人』は言うまでもなく救われる」と受け止めることが出来ます。


こう正しく理解できれば良いのですが、昔も、そしておそらく今も、字面だけを見て誤解する人は少なくありません。親鸞聖人の時代には「悪いことした方が救われるんだって、じゃあ夜討ち強盗にレッツゴー!」と蛮行に走る者もいたといいます。

情報を正しく受け止め理解する。
昔も、そして膨大な情報がとめどなく流れる現代はなお一層、真贋を見極めようとする姿勢が大切だと考えさせられます。

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2018年3月の法話 [月々の法語]

今年は親鸞聖人のお言葉を、弟子の唯円(とされています)が聞き書きをした『歎異抄(たんにしょう)』を題材としてお話しさせて頂いています。
スクリーンショット 2018-03-13 03-13 21.39.22.png

第二条は、本文がかなり長くなっていますので、2回に分けようかとも思ったのですが、全員の方が3月4月と必ずいらっしゃれるわけではないので、頑張ってお話しをさせて頂きました。


壮年時代を関東で布教して過ごした親鸞聖人は、晩年生まれ故郷の京都に帰られます。
その親鸞聖人の元に、関東の門弟が大変な苦労をしながら訪れ、どうしても師に尋ねたい疑問をぶつけます。それは「本当にお念仏だけで良いのでしょうか?」という問いでした。

親鸞聖人が説くのは「ただただ、お念仏だけで良いのです」という教え。
弟子たちも、面と向かって言葉を聴いているうちは安心していられたのでしょうが、離れて暮らすようになり、「本当にお念仏だけで良いのだろうか、他に何か修行をしなければいけないのではないだろうか」と不安になったのでしょう。

その弟子たちに親鸞聖人は「おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし…」と、非常に丁寧な言葉で迎えます。
「私は1人の弟子も持たない」と言い、また念仏者を「御同行、御同朋」と仰った親鸞聖人の平等の姿勢が表れています。

しかし疑義に対しては一切おもねることなく、「そのような疑問は、大きな誤りだ」と応えます。
そして「念仏で救われるのか地獄に堕ちるのか私は知らない。私はただ師である法然上人の言葉を信じているだけで、たとえ騙されていたとしても後悔しない」とまで言いきります。

おそらく弟子たちは騒然としたことでしょう。
動揺する彼らを前に、親鸞聖人は続けます。
「阿弥陀さま、お釋迦さま、中国の善導大師、法然上人と綿々と受け継がれてきた教えが間違っているはずがあるだろうか。そして私はそれをそのまま皆さんにお伝えしています」と。

何かを「信じる」ということは、ただ理由も無く信じるわけではなく、しかし一度信じたからには「地獄に堕ちても後悔はしない」という姿勢で信じきることが大切なのだと教えられます。


注:少し大きな本屋さんに行くと、歎異抄に関する本がたくさん並んでいて、どれを選べば良いか迷ってしまうかもしれません。中には偏った内容のものもありますので、岩波文庫、角川文庫、講談社などメジャーな出版社が出しているものや、本願寺出版が出しているものがお勧めです。
また五木寛之さんの「私訳 歎異抄」(PHP文庫)も読みやすいかと思います。

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2018年2月の法話 [月々の法語]

ここ数年、月めくりの真宗教団連合カレンダーに書いてある言葉を法話のテーマにしてきましたが、お参りの方からの要望があり、今年は歎異抄(たんにしょう)をテーマにお話しさせて頂くことになりました。
スクリーンショット 2018-02-08 02-08 22.50.46.png
第1条には、念仏者が信心によって救いとられてゆくことについて書かれています。
よく「南無阿弥陀仏のお念仏を称えることで救われる」と思われていますが、ここでは「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」つまり「お念仏しようかな〜」と思ったその時にすでに救われている、と書かれているのです。

また、阿弥陀仏によるその救いは、その人の年齢や善人悪人であるかどうかという条件で分け隔てをなされない、と書かれています(ここでの「悪人」は犯罪者などのような意味ではなく、自身の煩悩を自覚している人、といった意味になります)。

さらに、阿弥陀仏の本願を信じる者は、念仏以外の善行は必要ないし、煩悩に起因する行動で「救われないのではないか」と恐れる心配はないですよ、とも説かれています。


注:少し大きな本屋さんに行くと、歎異抄に関する本がたくさん並んでいて、どれを選べば良いか迷ってしまうかもしれません。中には偏った内容のものもありますので、岩波文庫、角川文庫、講談社などメジャーな出版社が出しているものや、本願寺出版が出しているものがお勧めです。
また五木寛之さんの「私訳 歎異抄」(PHP文庫)も読みやすいかと思います。

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2018年1月の法話 [月々の法語]

ここ数年、月めくりの真宗教団連合カレンダーに書いてある言葉を法話のテーマにしてきましたが、お参りの方からの要望があり、今年は歎異抄(たんにしょう)をテーマにお話しさせて頂くことになりました。
スクリーンショット 2018-01-13 01-13 22.37.16.png
歎異抄は宗教書というだけでなく哲学書としても世界中に広く知られ、またセンター試験によく問題として取り上げられる、非常に著名な書物でもあります。

親鸞聖人の著書ではなく、直弟子の唯円さまの聞き書きと言われています。
実は宗教書、哲学書には聞き書きのものが多く、いわゆる仏教のお経もお釈迦さまが書いたわけではなく、侍者であった阿難を中心とした仏弟子たちによって編纂されました。
新約聖書もイエス・キリストの弟子たちが書き記したものですし、論語も孔子の弟子たちが編纂をしたものです。

師である親鸞聖人が亡くなり時が過ぎ、その教えが誤解されたり曲解されたりすることが多くなってきたようです。親鸞聖人の側仕えをし、その言葉によく耳を傾けていた唯円さまは、教えが「なっていくことをき」、少しでもそれを正したいと筆を執られたのです。

今回取り上げた「前序」は親鸞聖人の言葉ではなく、上記の通り唯円さまが何故この書物を残そうと思ったのかという動機が記されています。
「故 親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留むるところ、いささかこれをしるす」という唯円さまの言葉が心に響きます。

来月からは内容に触れていきたいと思います。


注:少し大きな本屋さんに行くと、歎異抄に関する本がたくさん並んでいて、どれを選べば良いか迷ってしまうかもしれません。中には偏った内容のものもありますので、岩波文庫、角川文庫、講談社などメジャーな出版社が出しているものや、本願寺出版が出しているものがお勧めです。
また五木寛之さんの「私訳 歎異抄」(PHP文庫)も読みやすいかと思います。

nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2017年11月の法語 [月々の法語]

信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ
It is by entering the wisdom of the entrusting heart that we become person who respond in gratitude to the Buddha’s benevolence.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。

また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

釋迦弥陀の慈悲よりぞ 願作仏心は得しめたる
信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはなれ

<ことばの意味>
釋迦弥陀:お釈迦さまと阿弥陀さま
願作仏心:仏に成ろうと願う心 菩提心

<現代語訳>
お釈迦さまと阿弥陀さまの大慈悲によって、私たちは大菩提心を頂くことができた。
これは阿弥陀さまより賜った信心の智慧であって、この信心の智慧を得れば仏恩を感じ、これに報いようとする身になるのである。

<私のあじわい>
親鸞聖人はとても言葉を厳格に、また大切に扱う方だったようで、ご自身で書かれた文に「左訓」と呼ばれる註釈を丁寧にお書きになりました。
この和讃にも左訓が書かれていますが、特に3行目「信心の智慧にいりてこそ」の左訓が興味深いものになっています。
「弥陀の誓いは智慧にてまします故に、信ずる心の出で来るは智慧の起こると知るべし」と書かれていて、3行目本文よりもずっと長くなっています。

信心というと、「鰯の頭も信心から」や「盲信」という言葉もあるとおり、何かよく分からないけれど、とにかく拝んでおこうというような、知的な行為でないように捉えられることがあります。しかし親鸞聖人にとって信心とはそのような曖昧模糊としたものではなく、はっきりと眼が開き、迷いが晴れたような状態と受け止めていらしたのでしょう。
setsubun_yakuyoke_iwashi.png

万行寺の本多靜芳師は「信心の語源はサンスクリット語の『チッタ・プラサーダ』で、三昧や禅定という意味がある。言い換えると、心を静める、浄化するという意味で、いわゆる『信じる』という意味はない」と仰っていました。
ここからも信心とは、「何やらよく分からないものを拝む」という姿勢ではなく、本来は非常に知的な行為なのだということが分かりますし、親鸞聖人はやはり言葉の意味を正確に捉えていたことが伺い知れます。

ではその智慧というのはどういうことなのでしょうか。
私は宗派を問わず、仏教で説いている根本は「縁起・智慧・慈悲」だと思っています。
もう少し丁寧にお話ししますと、「この世の全ては互いに繋がり合っているという『縁起』の道理があり、それを『智慧』の眼で見据え、関係する全ての対象に『慈悲』が湧き起こるもの」と捉えています。

以前に「それを現代的に伝えるとどういう言葉になりますかね?」と問われてスッと頭に思い浮かんだのが「相関・俯瞰・共感ですかね」という言葉でした。言った後に気づいたのですが、「〜〜カン」と韻を踏んでいて、知人からも覚えやすくて分かりやすい、と褒めて頂きました。

縁起も智慧も慈悲も日本人には耳慣れた言葉ですので、はっきりと意味は分からなくても何となく有り難そうな言葉だと頷いてしまいがちだと思います。
けれど僧侶は、仏教用語の持っている雰囲気に依存するのではなく、しっかりと意味が伝わるように説明する必要があるのだと思います。そうしてこそ「鰯の頭も信心から」ではなく「信心=チッタ・プラサーダ」を共に味わえるのではないでしょうか。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2017年10月の法話 [月々の法語]

ねてもさめても へだてなく 南無阿弥陀仏をとなうべし
All should say Namo Amida Butsu constantly, whether they are awake or asleep.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

弥陀大悲の誓願を 深く信ぜん人はみな
寝てもさめても隔てなく 南無阿弥陀仏を称うべし

<ことばの意味>
弥陀:阿弥陀仏
大悲:阿弥陀仏の大いなる慈悲
誓願:阿弥陀仏が一切衆生を救いたいと誓われたこと

<現代語訳>
阿弥陀仏の、一切衆生を救いたいという誓願を深く信じる人は皆、
寝ている時も目覚めている時も、南無阿弥陀仏と称えようではありませんか

<私のあじわい>
親鸞聖人の和讃には「べし」という言葉がよく出てきます。
言葉のイメージとしては「〜〜すべし」などと命令的なイメージがありますが、調べてみると多様な意味があるようです。

進研ゼミのHPでは以下のように書いてありました。
【推量】 [訳し方]~だろう・~ようだ
【意志】 [訳し方]~う・~よう・~つもりだ
【可能】 [訳し方]~できる
【当然・義務】 [訳し方]~はずだ・~なければならない
【命令】 [訳し方]~せよ
【適当・勧誘】 [訳し方]~のがよい・~よう

命令という意味もありますが、「弟子一人も持たず」「御同行、御同朋」と仰った親鸞聖人が、ここで命令口調になるのは考えにくいことです。ですから和讃に頻出する「べし」は、「意志」や「適当・勧誘」の意味が込められていると考えるのが妥当だと思われます。
ですので現代語訳も「南無阿弥陀仏と称えようではありませんか」といたしました。

ではなぜ親鸞聖人は「一緒にお念仏を称えましょう」と仰ったのでしょうか。
それは、人間が生まれてきた以上、必ず直面せざるを得ない生死の問題があるからです。浄土真宗ではこれを「後生の一大事」と言います。
なにも浄土真宗だけで問題としているわけではなく、洋の東西・宗教を問わず生死は大きな問題なのです。

ラテン語の「メメント・モリ(死を思え)」という言葉はあまりに有名ですし、日蓮聖人は「先ずは臨終のことを習ろうて、後に他事を習ろうべし」と仰り、またドイツのハイデッガーは「人は、いつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない」と言っています。

思えばお釈迦さまも、裕福な王子の立場を捨てて出家修行に進んだ最初の動機は「病み、老い、死ぬのは嫌だ(四門出遊)」という思いでした。
つまり「死」とは、時代を超え究極の問題として私たちに突きつけられてくるものなのです。
そして法然上人、親鸞聖人は「必ず救うと誓った阿弥陀仏に全てを委ねる」という解決方法を見出し、それを人々に勧めていったのです。

今年の8月、エンディング産業展というイベントがありました。葬儀社や墓石業などの会社、お寺や葬儀に関するサービスを提供する会社が出展したのですが、ひときわ注目を集めメディアでも放映されたのが、ロボットのpepperがお坊さんになった姿でした。

smallスクリーンショット 2017-10-12 10-12 18.11.45.jpg

木魚を叩き、お経を上げ、法話もするというのです。賛否両論……とは言っても否定的な意見が多く、賛成意見も「まあ、お経は間違えないよね」といった程度のものでした。ただAIが進歩していけば、人間の僧侶を脅かす存在になるのではないか、という意見もありました。

しかし私としては、宗教の出発点のひとつが生死の問題である以上、死ぬことがないロボットは、宗教者として決定的に欠けているものがあると思います。

もちろんプログラムで「死に恐怖している様子」を振る舞うことは出来るかもしれません。同じように、完璧なお経や素晴らしい法話も可能でしょう。

つまり僧侶が法要儀式の場での読経マシーンであるならば、ロボットが代行することは可能だと思います。しかし、共に苦しみ、迷い、涙する存在であるからこそ、人間が宗教者をする意味があるのだと思います。

nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2017年9月の法話 [月々の法語]

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
The power of the Vow is without limit.
Thus, even our karmic evil, deep and heavy, is not oppressive.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

願力無窮にましませば 罪業深重も重からず
仏智無辺にましませば 散乱放逸も捨てられず

<ことばの意味>
願力:阿弥陀仏の、衆生を救い摂りたいという願い
無窮:限界が無いこと
罪業深重:凡夫である私たちが非常に罪深い存在であること
仏智:仏さまの智慧
無辺:際限が無いこと
散乱放逸:欲望に常に乱され、ほしいままに振る舞う者

<現代語訳>
阿弥陀仏の本願力は極まりないものであるから、どんなに罪とがが深かろうとも、それを重しとしない。
阿弥陀仏の智慧は際限がないものであるから、我々の心がどんなに乱れ、自分勝手であろうとも、それをお見捨てにならない。

<私のあじわい>
キリスト教と仏教、特に浄土真宗で似ている部分があると言われます。
キリスト教では人間は原罪を背負っていると説き、親鸞聖人は人間を罪悪深重の凡夫であると説きます。

アダムとイブがエデンの園で暮らしていた時、神から食べることを禁じられた知恵の木の実を、蛇にそそのかされて食べてしまう。神との約束を破ったことが「原罪」とされています。

いっぽう親鸞聖人が説いたのは、お釈迦さまの教えがあろうと道徳があろうと法律があろうと、人間には御しがたい煩悩があり、その煩悩によってどんな行いでもし得る存在だと説かれました。
「罪」が神との関係性の中から生まれているのか、自己省察の中から生まれているのか、根本的に異なっている部分もあります。しかし根本的に罪を背負った存在だというのが共通している部分ですね。

さて、真宗ではその「罪悪深重の凡夫」を救うのが阿弥陀仏だと説きます。罪悪深重を反省したり償ったりした者を救うのではなく、罪深いままの私たちをそのまま救い摂ると誓った仏さまです。
だからこそ和讃に書かれているように、阿弥陀仏の願いの力は「無窮」であり「無辺」だと説かれているのです。

9月2日からNHKで『植木等とのぼせもん』というドラマが始まりました。タイトルどおり、植木等さんを主人公としています。

この植木等さん、実はお坊さんになっていたのかもしれません。しかも浄土真宗。
植木さんは名古屋の生まれで、お父さまは真宗大谷派の僧侶でした。「等」という名前には「阿弥陀如来が一切衆生を平等に救う」という意味が込められているそうです。

植木さん、芸能人としての顔は「無責任男」を代名詞とするような喜劇俳優でしたが、実際には非常に真面目な正確だったようです。その真面目な彼にヒット曲となる「スーダラ節」の話がやってきます。

ちょいと一杯のつもりで飲んで いつの間にやらハシゴ酒♫
気がつきゃホームのベンチでゴロ寝 これじゃ身体にいいわきゃないよ♫
分かっちゃいるけどやめられない♫

1番は酒、2番はバクチ、3番は女性で失敗する、情けない男性の姿が描かれています。まさに和讃に書かれる「散乱放逸」の姿です。
植木さんは住職である父に、こんなふざけた歌を歌って良いのだろうかと相談します。
しかし父は、酒にバクチに女、どれも手を出さなければ良いと分かっているのに、どうしてもやめられない。これはまさしく親鸞聖人が説かれた凡夫の歌だ、浄土真宗の歌だ。ぜひ歌え。
そんなことを伝えたようです。

また「スーダラ」という言葉は、お釈迦さまが生まれたインドの身分制度で下層階級とされた「シュードラ」に似ています。泥と埃にまみれて生きるシュードラ。情と欲にまみれて生きる人を歌うスーダラ節。そんな連想もあったかもしれません(実際には「スーダラ」の語源は不明)。

悩み悲しみ苦しみ切なさ。捨てたくても捨て切れない重荷を抱えた私たちを、そのまま救い摂ると誓う仏さまがいる。そう気づいた時、私たちの重荷は重さが変わらぬままに軽くなっていくのではないでしょうか。

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:blog

2017年6月の法語 [月々の法語]

弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり
Amida has fulfilled the directing of virtue, which has two aspects: that for our going forth and that for our return.

今年の法語カレンダーは、2009年以来8年ぶりに、親鸞聖人の和讃(わさん)が題材になっています。和讃は七五調の和語の歌で、平安時代に流行した「今様(いまよう)」と形式は同じですが、仏・法・僧伽を讃嘆したものが特に「和讃」と呼ばれます。
また、カレンダーでは4行ある和讃の2行が記されていますので、まずは全体像をご紹介します。

弥陀の回向成就して 往相還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ 心行ともに得しむなれ

<ことばの意味>
弥陀:阿弥陀仏のこと
回向:阿弥陀仏から私たちに向けられる働き
往相:私たち凡夫が、浄土に往き仏として生まれること
還相:仏として生まれた私たちが、この世に戻り人々を救い導くこと
心行:信心と念仏

<現代語訳>
阿弥陀仏が私どもに恵まれる働きはすっかり完成していて、浄土に向かわしめる働きと、再びこの世へ帰らしめる働きと、二つである。
これらの本願のお恵みによってこそ、信心も念仏も得させて下さるのである。

<私のあじわい>
突然ですが、亡くなった方はどこにいらっしゃると思いますか?
死んだら無になる、という人もいらっしゃるでしょう。
すぐそばで見守ってくれているという方もいます。 
お星さまになったという方もいます。
天国に行かれたという方もいます。
私の心の中にという方もいます。
空の彼方という方もいます。
草葉の陰という方もいます。
亡き方を思ってお墓で手を合わせる方もいます。
亡き方を思ってお仏壇で手を合わせる方もいます。
遠くにいるような、でも近くにいるような…
果たしてどこにいるのか、誰もハッキリとは分かりません。
誰も確かめることが出来ない以上、人によって曖昧になってしまいます。
kojin_omoide.png

では仏教では、浄土真宗ではどう説いているのでしょうか。
それは遥か西の彼方、十万億の国を越えた西方極楽浄土で、憂い苦しみの無い仏さまとしておわします、と説いています。これが「往相回向」という言葉で表されています。

しかし、遥か西の世界にいらっしゃると同時に、私たちの元に帰り来て、様々な手だてを講じて救い、導いて下さっているとも説いています。これは「還相回向」という言葉で表されています。

亡き方を思い出し、いのちの不思議に感謝する時、様々なご恩に気づく時、「見守っていてね」と勇気を奮い起こす時、いつかきっと会えるねと懐かしむ時、それは自分自身の頭の中だけの出来事ではなく、仏となった亡き方があなたに働きかけているのですよと説くのです。

最近、あちこちで「死生観」や「死生学」という言葉を耳にするようになりました。終活が流行り、私が開催する「死の体験旅行」に多くの人が集まりますが、元気なうちに「死」について考えるのは、健全なことだと私は思っています。

しかし、もう一歩進んで「死後観」も大切ではないかと私は思っています。死生観は様々な分野の方が口にしていますが、死後観は宗教者しか語ることが出来ません。

この世の〝いのち〟を終えた後の世界をどう捉えるのか、どう語るのか。曖昧なイメージを漠然と抱くのではなく、綿々と受け継がれてきた重厚な世界観を持つことが、どれだけ人を勇気づけてくれるだろうかと思います。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog
前の10件 | - 月々の法語 ブログトップ