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2016年5月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
5月は以下の12行をお話させて頂きました。

天親菩薩造論説 帰命無礙光如来 依修多羅顕真実 光闡横超大誓願
広由本願力廻向 為度群生彰一心 帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数
得至蓮華蔵世界 即証真如法性身 遊煩悩林現神通 入生死園示応化

今回は浄土七高僧の第二祖、インドの天親菩薩の徳を讃える部分です。
天親菩薩または世親菩薩とも呼ばれる、1600〜1700年ほど前もインドにいらっしゃった仏教僧です。

今回いろいろと調べていたら、私が坊さんになってずっと勘違いしていたことを見つけました!
「横超」という言葉があります。これは親鸞聖人も浄土の教えを説く際に使っていた言葉なのですが、仏教の分類方法のひとつで「竪出・竪超・横出・横超」の4つに分けられています。

「竪」は自分の力で悟りを目指すこと。
「横」は仏さまの力で悟りを得ること。
「出」は一歩ずつ悟りに進むこと。
「超」は一瞬にして悟りを得ること。

それで、何を勘違いしていたかというと…
「竪」「堅」だと思っていたのです!
今までは、なぜ「よこ」に対するのが「かたい」なんだろう? と思っていたのですが、よくよく見れば「竪琴」の「竪」。つまり「よこ」に対していたのは「たて」だったのです。今まで何と迂闊だったのでしょう… (>_<) 


さて、気を取り直して進めていきます (^_^;) 
お釈迦さまの悟られた道は「竪出」で、また仏教のスタンダードはこの道です。一所懸命に修行して、一歩一歩着実に悟りを目指します。

しかし誰もがその道に邁進できるわけではありません。修行も学問も出来ない人々のために開かれた道が、お念仏の道です。阿弥陀仏に全てを任せようという気持ちになった所で、迷いの世界から悟りの世界へと「横超」、すなわち「横っ飛びに超えていく」と天親菩薩は説かれています。


そして浄土に往生した者は、再び私たちの世界に還ってきて、神通力によって人々を救う、とも説かれています。よくご葬儀などで「安らかにお眠りください」と言うことがありますが、実はゆっくり休んでなどいないで、私たちのために働いてくださっているというのです。

身近な例をあげれば、亡くなった人のことを思い出して、大切なことにハッと気づくようなことがあったとします。もちろん自分が頭で考えて気づいたというのが本当のところかもしれません。しかしそういう時、私たちは『亡き人に導かれ、気づかされた』と受け止めることがあります。これはつまり、亡き人が「私」の為に働いて下さったという、こころ豊かな受け止めではないでしょうか。

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2016年4月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
4月は以下の20行をお話させて頂きました。

弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生 信楽受持甚以難 難中之難無過斯
印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機
釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見
宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽 顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

今月から正信偈は後半、浄土七高僧の部分に入っていきます。
浄土七高僧とは、お釈迦さまが説かれた浄土の教えがご自身に至り届くまで、どのような方々がバトンを繋いで下さったのかと親鸞聖人が見定めた、インド・中国・日本の7名の高僧のことを指します。

最初はインドの龍樹菩薩。
お釈迦さまから500〜600年ほどあと、南インド(お釈迦さまは北インドの方です)に生まれた方で、第二の釈迦と呼ばれるほど優れた人物であったようです。

また大乗仏教の大成者とも言われ、「八宗の祖師」として浄土真宗のみならず、多くの宗派で尊崇を集める方でもあります。

龍樹菩薩は「難易二道」を説かれました。これは、自分の力で修行をし悟りを目指す仏道を、自分の足で歩む陸路の旅にたとえ、困難が伴うものと表現されました。
それに対し、阿弥陀仏の誓願に任せて往生する仏道は、船に乗れば目的地に到着する船旅にたとえ、楽しく易しいものと表現されました。

後半に「自然即時入必定」とありますが、これは「おのずから、ただちに正定聚(悟りを得ることが定まった仲間)に入る」という意味です。この「おのずから」が大切な部分で、船に乗ってしまえば、その船室で船酔いにもがき苦しもうと酒に酔って前後不覚になろうと、必ず目的地に到着します。

船酔いや酒酔いは、この世で生きる私たちが、煩悩に翻弄され苦しめられることの喩えです。どれだけ煩悩に苦しんでも、阿弥陀さまが舵を持つ船は、必ず目的地である浄土に辿り着くのです。

そんな阿弥陀様に対し私たちが出来ることは「応報大悲弘誓恩」、つまり大いなる慈悲の恩に報いることだけ。それはつまり、南無阿弥陀仏のお念仏を称えるしかないと示されているのです。

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2016年3月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から部分的に題材が取られています。
ですのでカレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈をコマギレでお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
3月は以下の16行をお話させて頂きました。

能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味
摂取心光常照護 己能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇 獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣
一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願 仏言広大勝解者 是人名分陀利華

今回ご紹介する部分の2行目には、親鸞聖人の思想の中でも際立って光る「不断煩悩得涅槃」という一文があります。釋尊に始まった仏教は、「煩悩を断って涅槃(悟り)を得る」ということを不動のメインテーマとして扱ってきたのであって、いかに煩悩を断つかの手段の違いが「宗派」となって分かれてきました。

しかし親鸞聖人の思想ははここでコペルニクス的転回をします。「不断煩悩得涅槃」つまり「煩悩を断たずして涅槃を得る」と示されているのです。
また前の行には「能発一念喜愛心」と、その唯一の条件である「信心を得る」ことについて説かれていますが、次の行に「凡聖逆謗斉廻入(聖者も凡夫も、五逆罪を犯す者も仏法を謗る者も救われる)」と書かれていて、阿弥陀仏の救いに一切の洩れがないことが示されているのです。


ただ。
阿弥陀仏より賜った「信」を得て、煩悩を有する身のまま悟りを得ることが決まったとはいえ、では今現在の私たちが仏と同じ立場かというと、それは違います。やはり仏ならぬ私たちの心には、煩悩がムクムクと雲のように湧いてくるのです。
「摂取心光常照護」…阿弥陀仏の救いの光が常に届いていたとしても
「貪愛瞋憎之雲霧」…煩悩が雲となってその光を遮ります

しかしどんなに雲や霧が立ちこめて薄暗くても、日中であれば真っ暗になることはありません。太陽の光は大地に降りそそいでいるのです。
「雲霧之下明無闇」…雲が厚くても、光は雲を突き抜けて地に届きます


断たねばならぬ煩悩を断たずして涅槃を得るということは、救われる可能性のない多くの民衆が平等に救われていく道を示したことでした。今月書かれている部分は、親鸞聖人の思想の中でも真骨頂であると、私は受け止めています。

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2016年2月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から題材が取られています。
ですので、カレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈を部分的にお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
2月は以下の8行をお話させて頂きました。

本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言

最初の4行で、阿弥陀仏が私たち衆生をいかに救うかが説かれています。
五正行(読誦・観察・礼拝・称名・讃嘆供養)のうち、称名こそが阿弥陀仏の御心にかなう真実の行であるとし、「正定業」と呼びます。ちなみに他の4つを補助的な行ということで「助業」と呼びます。

これは阿弥陀仏の四十八願のうち、最も大切な十八番目の願「至心信楽の願」を要因としています。「至心」とは阿弥陀仏が衆生を救いたいと思う心、「信楽」とは阿弥陀仏の本願を疑わない心です。そしてそれに付随する「欲生」は浄土に生まれたいと願う心です。

※十八願 たとい我、仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して我が国に生ぜんと欲いて乃至十念せん。もし生ぜずは正覚を取らじ。

また、私たち衆生が正定聚(仏になる事が定まる)の位につく要因は、十一番目の願「必至滅度の願」に説かれています。

※十一願 たとい我、仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ。

後半の4行では、如来(ここではお釈迦さま)がこの世に生まれた最も大切な目的(出世の本懐)は、この阿弥陀仏の誓いを説くためであったとしています。

そして、自らの力で悟る事が出来ない、濁った時代に生きる人々に対し、どうかこの教えを信じてほしいと訴えかけているのです。

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2016年1月の法話 [月々の法語]

今年の真宗教団連合カレンダーは、正信偈を意訳した『和訳 正信偈』から題材が取られています。
ですので、カレンダーの言葉だけを取り扱うと、正信偈を部分的にお話することになってしまいますので、今年は正信偈を通してお話させて頂こうと思います。

正信偈は7文字で1行で、全体で120行の構成になっています。
1月は以下の16行をお話させて頂きました。

帰命無量寿如来 南無不可思議光 法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所
覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪 建立無上殊勝願 超発希有大弘誓
五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方 普放無量無辺光 無碍無対光炎王
清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照


まず最初の2行で親鸞聖人は、阿弥陀如来への帰依の心を重ねて申し上げています。
「帰命」も「南無」も、帰依することを表し、対象を信じ全てをお任せするお心を表しています。
「無量寿如来」も「不可思議光(如来)」も、阿弥陀如来の異名です。

阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩が、師である世自在王仏のもとで様々な如来の浄土を見せて頂き、その上で自らの浄土を建立する誓いをお建てになりました。
その誓いを建てるのに五劫もの長い時間がかけられ、自らの名前を呼ぶ(お念仏)者を必ず救うと重ねて誓われました。

その誓いが成就し、法蔵菩薩は阿弥陀如来と成られたのです。
そして12の光にまつわる異名の通り、阿弥陀如来が放つ光は、全ての国々、全ての人々に届き渡っています。


大まかな意味としては以上の通りです。
実は写経会でも正信偈を扱っていて、現代語訳は参加者にお渡ししています。
でも文字をただ読むのと、実際に僧侶の口から解説を聞くのは違いますね、と両方に参加している方から仰って頂きました。

それを聞いて、やはり浄土真宗のお寺は、法を聞く場所、聞法の道場なのだということに、改めて気づかせて頂きました。

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2015年11月の法語 [月々の法語]

如来の本願は 称名念仏にあり
The working of Amida’s Primal Vow is in the intoning of Namo Amida Butsu.
藤元 正樹

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。11月は真宗大谷派 兵庫県の円徳寺住職 藤元正樹師のお言葉です。ちなみに10月の言葉を発した栗山力精師のお寺も、偶然ですが円徳寺という名前です。


 非常にシンプルなお言葉で、浄土真宗の教えが端的に述べられています。つまり「阿弥陀如来が一切衆生を救いたいとお建てになった本願は、私たちが念仏を称える事で救われていく道をお示しになったことである」ということです。

 しかしシンプルすぎる教えは、かえって疑問を生む事があるのではないでしょうか。例えば、「念仏を称えればいいと言うが、何回称えればいいのだろうか? 多い方が良いのだろうか? 少なくても大丈夫だろうか?」という疑問や、「どういう心持ちで念仏を称えればいいのだろうか? やはり真剣に集中して称えるべきだろうか? それとも他の事を考えながら称えてもいいのだろうか?」といった疑問です。


 最近「安心論題」というものについて学んでいます。読み方は「あんしん ろんだい」ではなく「あんじん ろんだい」で、浄土真宗の教えの上で誤解しやすい部分、押さえておくべき部分について徹底的に論じられたものです。

 たとえば第5章は「信心正因」と題されています。これは、「阿弥陀仏を信じて念仏を称えれば救われる」という言葉について、信じる事と称える事、どちらが大切なんですか? という問題について考えたものです。長くなるので詳細は省きますが、ここでは信心が大切だとされています。信心が因となって救いが成立し、それを喜び感謝して出てくる声がお念仏であるという捉え方です。


 ところが今月の言葉は「如来の本願は称名念仏にあり」とあります。これだけを見ると信心より念仏の方が大切なようですが、ふと英訳を見てみると「working」という語に目が行きます。なぜここに「work=働く」の現在進行形があるのでしょうか?

 それは阿弥陀如来というものが決して現実的な存在としてあるのではなく、大切な真実を私たちに伝えんがための方便であって、私たちがその真実に向き合う時=真実が私たちに「はたらきかけている」時だということです。

 真実はいつも変わらずそこにあるのですが、普段私たちはそれを見ようとしません。しかし様々な縁が重なって真実に目が向く時を「如来が働く時」と表現するのではないでしょうか。如来に「はたらき」かけられて念仏が口から出てきますので、やはり信心が因ということになるのです。

 如来、本願、念仏…それらを別々に考えると様々な疑問が湧いてきます。でも本質的にはそれらはひとつのもので、あれこれ考えるべきものではないのでしょう。法然上人が「愚者になりて往生す」とおっしゃった言葉が耳に響いてきます。

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2015年10月の法語 [月々の法語]

世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法
The Buddha Dharma teaches me of the impasses in secular logic.
栗山 力精(くりやま りきしょう)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。10月は浄土真宗本願寺派、福岡県の円徳寺住職、栗山力精師のお言葉です。

 この言葉は、栗山師が自坊の寺報に記した「人間として生きて行く上には、世俗の論理を無視することはできないことであろう。しかし世俗の論理の行き詰まることを教えるのが仏法なのである」という一文から採られています。

 仏教のことを「仏法」とも言います。「ブッダ(仏陀=悟った人)が説いた教え」であり「ブッダになるための教え」だから「仏教」です。またその教えは「法」とも呼ばれますので「仏法」となります。「法」の語源は「ダルマ」で「真実」を意味します。

 ちなみに浄土真宗で「戒名」と言わず「法名」と言うのは、「戒律を守れない私だけど、仏さまの法を聞き続けよう」という意思表明をした者の名前という意味です(けっして死者の名前ではありません)。

 さて、この「仏法」に対応する言葉が「世法」そして「王法」です。世法は世間一般の法則、つまり倫理や道徳のことです。「王法」は王様が決めた法則、現代で言えば法律でしょう。
 王法を守らなければ、刑務所に入れられてしまいます。世法を守らなければ、後ろ指を指される存在になります。では仏法を守らなければどうなるでしょう? 実は仏法を守ることは非常に困難なことですし、守れなかったからといって、刑務所に入れられることも無ければ後ろ指を指されることもありません。ですから普段私たちが生活する上で気にするのは、「王法>世法>仏法」ということになるでしょう。言い方を変えれば、守りやすい順番とも言えます。

 私が(あなたが、でも結構ですが)気の合わない相手と口論になったとします。その時カッとなって殴ってしまったら、王法に触れることになります。カッとなったけど手は出さずにこらえとしても、相手を罵ったりしたら世法の観点でNGになるでしょう。
 では仏法ではどうでしょうか。手も出さなかった、口にも出さなかった、心の中で「殴ってやりたい」と思ったけどグッとこらえた。王法にも世法にも触れません。しかし仏法では心の中で思っただけでも、実際に行ったと同じだとされるのです。「仏法を守るのは非常に困難」と前述したのは、これが理由です。

 「人間なんだから腹を立てることぐらいあるだろう、それもダメだなんて難しすぎる」と思われるかもしれません。でも、難しいからこそ仏教・宗教なのではないでしょうか。キリスト教にも「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という言葉があります。これもやはり実行できないことです。 誰もが守れる内容、実践できるものであれば、それを守ったところで大した成果は得られません。困難なことだからこそ、自分を悟りに近づけてくれるのではないでしょうか。どうぞ皆さん、精進なさって下さい。

 ……とは言っても、なかなか精進できそうにありませんよね (^_^;) 
そんな私たちに開かれた道が、お念仏の教えです。自分がいかに至らない未熟な存在であるか。そこに気づいた時、自然と頭が下がる。自分への慢心や執着を手放した時にこそ見えてくる世界がある、ということではないでしょうか。

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2015年9月の法語 [月々の法語]

煩悩の嵐の中にも 念仏において本願の呼び声が聞こえてくる
Even amidst the tempest of self-centered desires, one can hear the calling of the Primal Vow in the working of Namo Amida Butsu.
正親 含英(おおぎ がんえい)

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。9月は、真宗大谷派の僧侶で、1958〜1961年の間、大谷大学の学長を務めていらっしゃった 正親含英師のお言葉です。

 今月の言葉を見て、ちょうど1年前の なごみ庵だよりを思いだしました。昨年8月に広島で豪雨災害があったのですが、その報道の中で「過去にこの地域で起こった豪雨災害の教訓が活かされておらず、なぜ迅速に避難しなかったのか」との苦言が呈されていました。
 そんなとき浄土宗の井上広法さんが、平成10年の那須豪雨の際、その渦中にいた自身の経験を書いてくれました。 

 雷はひっきりなしに鳴り響き、停電のなか、雷光で本が読めるのではと思うほどだった。あまりの雷鳴に、部屋の中にもかかわらず、全ての金属を外した覚えがある。ただただ怖かった。
 豪雨は計り知れなく、このままこの世が沈没するのではと思うほどだった。もし避難せよと言われていたら果たしてできただろうか。十数年前の記憶を鮮明に蘇らせれば、それは難しかったのではないかと思う。

 今年も台風18号の影響で9月8日ごろから雨が降り続き、鬼怒川が決壊して大きな被害が出ています。ここ横浜もかなりの量の雨が降りましたが、被害の出ている地域では遥かに大量の雨が降り、不安で恐ろしい思いをされたことでしょう。可能な限り被害が小さく済むよう、念ずるばかりです。

 今月の言葉は、私たちの中に潜む煩悩を「嵐」と喩えています。とはいえ私たちの煩悩は、常に嵐のように荒れ狂ってばかりではいません。縁が整わなければ穏やかな時もありますが、でも決して消え去ったわけではなく、私たちの心の底でトグロを巻いているだけです。親鸞聖人も和讃で「悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり」とご自身の(つまり人間の)本性に触れていますが、縁に触れれば煩悩は鎌首をもたげ、暴れだすことでしょう。

 ひとたび煩悩が嵐のように暴れだせば、地鳴りのような豪雨の音、屋内でも身に付けた金属を外してしまうほどの雷鳴が響きます。私たちの生活に引き当ててみれば、突然の病気やケガ、天災や人災、そして死。そんな理不尽な出来事に出遭い、体力も消耗しきって、心も千々に乱れきった状態が、「煩悩の嵐」のまっただ中にいるということになります。

 私たちの人生は、理不尽の連続です。他人の目から見れば、それは「運が良かったね、悪かったね」という程度の話になってしまいますが、自分の身に起きれば理不尽きわまりない、それこそ「神も仏もあるもんか」という気持ちになります。
 その理不尽を「解消」するため、人間は法律を作ったり、科学や医学を発展させたり、土木工事を行ったり、あるいは兵器を造ってきました。でも、人間は新たな欲求をし続ける生き物ですから、それだけでは絶対に理不尽を「解消」することはできないのです。

 「解消」しようとする道に対して、「超える」道が仏教です。煩悩の嵐の中、私たちの耳に届き得るのはお念仏しかないのではないかと思います。むろん、念仏は呪文ではありませんから、今まで全く念仏に触れてこなかった方が突然それを称えても、目の前の問題が解決するなどということはありません。
 けれど念仏の教えに触れ、信じている人にとって、それは心強いものです。いえ、それでしか嵐を超える道はない、私にとってそれほど確かなものです。

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2015年6月の法語 [月々の法語]

ものが縛るのではありません ものをとらえる心に縛られるのです
Material wealth dose not tie us down. Rather, it is the intention to seize material wealth that does.
仲野 良俊

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。6月は、真宗大谷派の僧侶で、北海道教学研究所所長、京都の教学研究所所長を歴任された、仲野良俊師の言葉です。

 今月の言葉を見てふと頭をよぎったのは「二の矢を受けない」というお釈迦さまの教えです。私たちは目に留まったものや耳に聞こえたものに反応してしまいます。「綺麗な花だな」「美しい音楽だな」と感じるのは止めようがないのは、お釈迦さまでも同じことでしょう。その最初の反応が「第1の矢」です。
 しかし、それによって引き起こされる二次的な反応を起こさないようにすることが「二の矢を受けない」という教えです。先ほどの喩えでいうと「綺麗な花だな。これは何という花だろう。誰が育てた花だろう。引き抜いて持ち帰って家に飾ろうか…」と次から次へと湧き上がってくる思い。
また「美しい音楽だな。誰が演奏しているのだろう。その人はどんな人だろうか。自分のために曲を奏でてくれるだろうか…」と、やはり次から次へ湧き上がる思い。

 そういった思いが、欲望や執着となって、私たちを苦しめるのです。今月の言葉で考えると、自分の持ち物や、自分の家族や友人。そういった人やモノが自分を縛ろうとしているのではなく、そういった人やモノを自分の手元に置いておきたいと欲する心に、私たちは振り回され縛られてしまうのではないでしょうか。

 先日、和ろうそくを作るワークショップに参加してきました。お寺でも普段は洋ろうそくを使う場合が多く、和ろうそくについて、あまり詳しくは知りませんでした。
材料のロウは、小さなハゼの木の実から採るそおうです。そして和紙・イグサ・真綿から作られた芯に、溶かしたロウを手で塗り付けてろうそくを作っていきます。
 ほんの1本のろうそくを作るのに、どれだけの手間がかかるのだろうと気が遠くなる思いでした。そして頭に浮かんだのは「蛍雪の功」という言葉です。昔は、蛍を集めたり月明かりを雪に映して勉学に励んでいたのです。 現代ではスイッチひとつで真夜中でも煌々と明かりをつけることができ、その有り難さに改めて気づかされましたが、しかし私はきっと、その有り難みをすぐに忘れてしまうと思います。

 現代の私たちは、昔の王侯貴族よりも豊かな生活を送っています。夜に灯をともし、夏に部屋を涼しくし、冬には暖かくし、季節を問わず世界中の食べ物を食べることが出来ます。タイムマシンで大昔の人を現代に連れてきたら、どれだけ驚き感激するでしょうか。
 しかし人間はすぐに慣れてしまう動物ですので、大昔の人も半年もすれば現代の生活に慣れてしまうかもしれません。
つまり私たち人間は、今後どれだけ科学技術が発展して便利な世の中になっても、すぐにその有り難みを忘れ、それが当たり前だと思ってしまうのです。そうすると、「もっと、もっと」という気持ちが湧き上がってきます。

 仏教には「小欲知足(欲を少なくして、足りていることを知る)」や「唯吾知足(ただ吾、足るを知る)」という言葉がありますが、豊かさや便利さを追い求めないのは難しいことです。せめて、自分はモノや欲求に縛られているんだな、と自覚すれば、縛られすぎない生き方に一歩近づけるのではないでしょうか。

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2015年5月の法語 [月々の法語]

わしひとりを めあての本願の ありがたさ
There is nothing more grateful than Amida’s Primal Vow, which is intended just for me.
花岡 大学

 今年のカレンダーの法語は、様々な念仏者や僧侶の言葉から選ばれています。5月は、浄土真宗本願寺派の僧侶で京都女子大学名誉教授、小説家であり児童文学作家である花岡大学 師の言葉です。

 この言葉は親鸞聖人の語録とされる『歎異抄』後序にある「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」が元となっていると思われます。
 現代の言葉にすると「阿弥陀仏が五劫という長い時間をかけてお考えになった誓願をよくよく考えてみると、それはひとえにこの親鸞一人を救うためであったのだ。思えばはかり知れない罪業をもったこの身であるのに、その自分をたすけようと思い立ってくださった本願の、なんとありがたいことか」となるでしょうか。

 なぜ、全ての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏の誓いを、親鸞聖人は自分ひとりのためだと受け止めたのでしょうか。そこには2つの意味があるように思います。
 ひとつは、自分こそがもっとも救われ難い罪悪深重の凡夫であるという自覚です。もっとも救われ難い自分が救われるのであれば、自分よりマシな他の衆生は必ず救われる、ということになります。
 もうひとつは、誰が救われる・救われない、あの人は大丈夫だ・あいつはダメだ、と人を裁くためではなく、あくまで自分自身を問題にするのが仏道だということでしょう。

 以前に聞いたご法話で、その方がまだ仏教を学び始めた頃、師に「あの犯罪者は救われるのか? 犬は救われるのか?」といつも他者を引き合いに尋ねていたのだそうです。ある時その師は「君はいつも自分以外のものを連れてくるなぁ」と諭されました。つまり、他者を裁くのではなく、自分自身を仏さまの照らす光のもとにさらけ出し、仏さまの救いを自分の問題として考えていかなければ、それは仏道ではない、ということなのだと思います。
 そこまで思いが至ると、今月の言葉のように「わしひとりを めあての本願」を「かたじけない」と感じられるようになるのではないでしょうか。

 先日「死の体験旅行」を受けてくれた真言宗の女性僧侶は「仏さまは私を決して見捨てない」ということを仰いました。これはその方が「自分は特別な存在だから仏が見捨てない」と思っているわけではありません。仏さまは全ての人、ひとりひとりを決して見捨てず、慈しんでくださっている。そのような理解があるからこそ出てきた言葉です。
 この感想を聞いて、真言宗と浄土真宗、宗派は違っても仏さまに対しての思いや信頼感、そして自分自身を問題とするという共通した部分があることに気づかされました。

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