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2019年5月の法語 [月々の法語]

十方の如来は衆生を一子のごとくに憐念す
The Tathagatas of the ten quarters compassionately regard each sentient being as their only child.
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今年の法語カレンダーは親鸞聖人のさまざまな著書から言葉が引かれており、5月は『浄土和讃』の中で勢至菩薩を讃える「勢至讃」の一首です。また、カレンダーに書かれているのはひとつの和讃の半分ですので、まず全体を読んでみましょう。

超日月光この身には 念仏三昧教えしむ 十方の如来衆生を 一子のごとくに憐念す

実はこの和讃だけでは意味が完結しておらず、前後数首を併せてひとつの物語となっています。ですのでまず、前後も併せて現代語訳をします。

勢至菩薩は釈尊の御足を頂かれつつ申し上げるには、「はるかな昔、ひとりの仏が世に出られました。名を無量光と申します。その後、一劫にひとりずつ仏が世に出られ、十二劫が過ぎて最後の仏は超日月光仏と申します。

超日月光仏は私に念仏三昧を教えてくださいました。十方諸仏の慈悲を一身にそなえた阿弥陀仏は、人々を自分の一人子のように憐れみいつくしんでくださいます。

子が母を思うように、人々が阿弥陀仏を常に思っていると、いま眼前に、また未来に、ほどなく阿弥陀仏を必ず拝見できるでしょう。

十二劫の間に12の仏さまが世に出たと書かれています。これらの仏さまはそれぞれの名前がありますが、全て阿弥陀仏の化身であるとされています。またその順序は、よく声に出してお勤めをする「正信偈」の前半部分にも書かれています。


<私のあじわい>
釈尊は歴史上に実在した人物ですが、観音菩薩や勢至菩薩、阿弥陀仏は歴史上の人物ではありません。ですがこれらの和讃では、釈尊の目の前に勢至菩薩が額ずきながら阿弥陀仏について語るシーンが描かれているのが面白い部分です。

また、勢至菩薩を讃えるようでいて、その勢至菩薩が阿弥陀仏が教えてくれた念仏三昧や、全ての衆生を一人子のようにいつくしむ阿弥陀仏の慈悲について書かれているので、結局は阿弥陀仏を讃える内容になっているのも面白味を感じます。

和讃に「衆生を一子のごとくに憐念す」とあります。衆生とは生きとし生けるもの全てを指す言葉ですが、複数を表すこの言葉の後に「一子のごとく」と続きます。つまり数えきれない生命ひとつひとつを、我が一人子のように仏さまは憐れみいつくしんでくださっている、ということになります。


この部分を読むと、『歎異抄』の後序にある親鸞聖人の言葉「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」が思い起こされます。阿弥陀仏が、五劫もの長い年月をかけて考え尽くしてお建てになった誓願は、この私(親鸞)ひとりのためであったのだ」という受け止めです。

一見、傲慢な発言にも見えてしまうこの言葉ですが、もちろん仏さまの慈悲を自分が一身に受けている、という意味ではありません。阿弥陀仏の慈悲は衆生すべてに向けられているのですが、中でも自らの煩悩の海におぼれかかっているような凡夫にこそ、その慈悲は差し向けられています。

ですので親鸞聖人のこの言葉は傲慢とは正反対で、ご自身を非常に厳しく見て、自分のような者こそ阿弥陀仏の救いの対象なのだ、と捉えているからこその言葉になります。また、仏道というものは知識を蓄えることが目的でもなく、処世術でもなく、人を裁くための道具でもなく、ただただ自分自身を問題とするものだ、ということも表しているように感じられるのです。

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